大事なのは光ではなく陰、おかげさまを感じていくこと

光りではなく陰を感じることで
今の流れは変えられる

 

過去を自分の味方にした自分。

さらに自信を持った自分になったけど、
自分は何をやりたいのかわからなかった。

でも人生とはおもしろいもので、
そこから僕は独立起業の人生の流れを
呼び込むことになりました。

光りではなく陰の力を使うこと。

これが自分の人生の流れを
良き方向に変える技だったのです。

 

夢がない人は夢がある人を応援できる

自分に自信はあるものの、
そのパワーやエネルギーをどこに向けていいかわからず、さまよっていました。

様々な人に出逢い、
様々な学びの場に顔を出しました。

しかしそこで共通して言われていたことは、

『夢をもて』
『目標をもて』
『使命をもて』

というものでした。
どんなセミナーや講演会を受けても
僕はそれを持つことができませんでした。

 

そんな時に飛び込んできた耳を疑う言葉がありました。

講演家の中村文昭さんのこの言葉。

「夢がなくてもいい。」
「夢がない人は夢がある人を応援したらええんや。」

 

そしてこの言葉は僕の人生を変えた。

人の応援をすることがもともと好きだった自分。
こんな道があったのかと衝撃を受けました。そして即実践。

この講演の後に出会った人の応援をした結果、
そこで未来の妻と出会うことになり、

僕が独立起業するきっかけとなった
路上詩人のテンツクマンに出会うことになり、

起業精神を教わるまさかの1年間の
飲食店の店長仕事をすることになったのです。

すべては人のおかげで。

 

自分が光にならずとも、
陰で光の力になることで流れは変わるのです。

そして、ほとんどの仕事は
実は光の陰の存在で成り立っているんです。

 

人を変えるな自分が変われ

今までの仕事の給料半分で休みも半分。

普通に考えたらモチベーションが
あがらない環境だけど、

僕はここを絶対おもしろい仕事場にする。
そう決めてました。

 

パクチーハウス東京という
世界初のパクチー料理専門店。

僕はそこで店長候補として入り、
3カ月で店長になりました。

ここに来るまで、4社ほどの会社を転々としてきました。

一社目でつぶれて、
仕事は人生の時間の大半を占めるのに
なんで楽しくできないんだ。と強く思いました。

「仕事を楽しくしたい。」
「楽しい仕事場はきっとどこかにあるはずだ!」

そう思って転々と探してみましたが、
どこにもありませんでした。

そこで気づいたんです。

環境を探すのではなく、
環境を創ることにする。

 

以前よりも待遇の視点でみたら悪いこの環境で、
今までのどの仕事よりも楽しくする!

1年という自分の目標を決めてやった結果、
最高に楽しい1年となりました。

 

でも、はじめから楽しくできたわけではありません。

僕はお店に入った時、お店にはこんなバイトがいました。

 

仕事している時に携帯をいじっているバイトの子。

「仕事しろよ。」と注意をすると、
「めんどくさいっす。」と返ってくる。

す、すごいでしょ!?

 

僕ははじめは人を変えよう変えようとしてた。

店長という立場を使って、
その位置の言葉を使って変えようとしてました。

でも、
やめました。

 

環境を変えることを。

 

そして僕がやったのは、
自分が変わることをしてみたんです。

 

誰もが嫌がる仕事、トイレ掃除や洗い場を
店長自ら率先して楽しくやってみました。

「今から世界一の洗い物をするぞー!」
「どおっりゃっーーー!」

そんなことをいきなりはじめたものだから、
当然大概の人はひいていきました。。

 

様々な人が行き交う場、
当然問題やピンチが訪れたりします。

例えば忙しすぎてお皿を割ってしまった時も、

「チャーンス♪」

と大声で叫んでました。

すると、こいつ大丈夫か?という顔でスタッフが言います。

「はぁ!?まささん何がチャンスなんですか?」

怒りを通りこして、
あきれた顔が目の前に並んでいる中僕は言います。

「これは忙しすぎて注意が散漫になっていることをみんなで認識して、互いに気持ちを落ち着かせるチャンスだ!」

とか言ってました。すると…

みんな無言で、何事もなかったように仕事を始める。
そんなことが続いてました。

 

しかし、これがちょっとずつ環境を変えます。

いつものように店が大変になって、
世界一の洗い物をやっていたら、
スタッフの一人が僕の横に来て、

「まささん、世界一のすすぎを隣でやっていいですか?」

と言って、世界一が一人増えたのです。

 

そして、

「まささん!なんか音楽って人の動きを変えますよね!?」

「洗い物が忙しい時、運動会の徒競走の音楽かけてみませんか?」

当時、お店が忙しくなると、
厨房では運動会の徒競走の音楽が流れてました。(笑)

でもこれがほんと動きが早くなるんです。

 

そんなこんなで、毎日仕事がほんと楽しくなりました。

『みんなが楽しくなる工夫をし始めたんです。』

 

そんなある時、

「お世話になっているこの町に恩返しをしたい!」
と僕が思いつきで吠えて、

「明日の朝掃除道具もって店に集合!」
と前日の夜に伝えてみたら、

「まささん、さすがに今日の明日じゃ予定ありますよ!」
とみんなに言われてしまいました。

僕は一人でもやるぞ!
そう決めていたので朝にお店にいきました。

やっぱり1人かな。。
時間になっても誰も来ないのではじめようとすると、、

 

仕事中に携帯いじって「めんどくさいっす」と言ってたバイトの子が現れたんです。

 

「えっ!?どうした!???」

って聞いたら、照れくさそうに顔を見ずに
「いや。。暇だったんで。。」って。

 

そして、ダイソーに掃除道具を買いにいくと、
ダイソーのバイト募集の張り紙が、

なんとうちよりかなり給料がよかったんです。

 

「こっちの方が給料いいねー。」と彼に話すと、

「まささん、うちはダイソーにはない学びと楽しさがあります。」
「お金じゃないですよ。」

そう真面目に答えてきました。
僕はびっくりして少し涙が。。

その後、彼はバイトのリーダーになりました。

人や環境を変えようとせず、
自分が変われば、人も環境も変わるんです。

 

でも、それができるのも、
目の前のチャンスな人や環境がある『おかげ』なんです。

 

 

 

おかげの力は流れをつくります。

僕が路上詩人として独立するきっかけになったのは、
今の妻の一言からでした。

「今度、路上詩人塾っていうのがあるみただけど、行ってみたら?」

でも僕は一度それをスルーしました。
僕には到底できないと思っていたから。

でも彼女はあきらめませんでした。

なんと僕の名前の印を誰かに作ってもらい
それを僕の家に郵送してきたのです。

 

おかげで僕は逃げられなくなって、
路上詩人塾に参加。

そしたら、挑む人を応援することが好きな自分に
完全にヒットしたのです。

誰かからもらうきっかけ。
これを「おかげで」と受け取る時、
人生に大きな新しい流れがやってきます。

そして僕は路上詩人となりました。

 

路上詩人時代の話は
書いたら1冊の本になるくらいあるので
書ききれません。

ただ、今まで約1万人の人に出逢い
言葉を書いてきて、

そこで様々なことを教わった中で、
今伝えたい教えは、

 

お光さまではなくお陰さま

という精神です。

 

ある時、作品を書かせてもらった人が
2000円なのに3000円のお金を渡してきました。

「これはほんの気持ちだ、受け取っておくれ。」

そう言われたけど、僕はそういうのが苦手で、

「いやいや。。いいっすよ。。」

って返そうとしたら、、

 

「あなたは受け取るお布施をしってますか?」

 

と急に言われたんです。そして、

 

「受け取り上手になる魔法の言葉を教えてあげます。」

 

そう言ってきたんです。
そこで教わったのが、

 

「あのな、『おかげさま』という言葉は魔法だよ。使ってごらん。」

 

そう言われました。
そして立て続きにこんな話を聞きました。

 

「昔の人はお光さまではなくお陰さまの陰を選んだ。」

「それは、見えている光よりも見えない陰が大事だと思ったから。」

「今自分がいるのは、見えているものより見えてないもののおかげで今がある。」

「そのおかげを感じて今を生きることが大事なんだ。」

 

こんな話をされ、
目から鱗な教えでした。

 

今こうやって路上詩人ができてるのも、

何万人の人が関わって作ってくれた
このショッピングセンターがあるからだし、

自分が使っている紙も墨も筆も、
これまたたくさんの人が作ってくれたからだし、

書を書かせていただくのも、
「書いてほしい」という人がいてくれるからだし、

もっと言うと、自分を生んでくれた両親、
そしてその過去永遠と続く先祖さまがいたおかげ。

 

お光の存在で自分のお役目や使命があるのでななく、
お陰の存在のおかげで自分のお役目や使命がある。

 

大事なのは、お陰に感謝し、お陰を大事にし、
お陰との関わりで自分ができることをする。

すると流れに乗れていく。

 

これが腑に落ちた後、
出逢った人に自分ができることで
その人を応援していった結果。

『あなたの目を見てインスピレーションで言葉を書きます。』
という対面で作る即興作品は1万人以上に書き、

人に喜ばれる自分の個性ある字を書けるようになる
個性筆教室という教室が生まれ1000人以上に教え、

その個性筆教室を教えたいという人が現れ、
個性筆文字協会を設立し、講師を全国に約100人育成する。

そんな流れが起こったのです。

 

しかし、そんないい流れと共に、
2011年にあの大事件が起こったのです。

そして僕は、この流れと共に、
新しい流れに向かって進むことになりました。

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