限界集落と言われる田舎に来て早3年がたった。
なれてきた部分とまだまだわからず教えてもらうことだらけな田舎生活。
時々こんなことを思い出すことがある。
サラリーマン時代の同期生と会った時の会話
「おれ先週は土日も仕事だった。大変だよ。」
「今100人体制でプロジェクトやって、もうめっちゃ大変」
「今やっている仕事さ冬なのに冷蔵庫みたいな寒さで嫌になっちゃうよ」
・・・。
社内やラウンジとかで会うと、必ずと言っていいほどはじまるこの会話。
苦労自慢。
当時は僕もその会話をしている人間だった。
だけど。
会社を辞めてから思った。
いったいあの会話は何がしたかったんだろう。
会話をした後、大変なのになんか誇らしげな表情をしていたみんな。
「大変」といいながら、大変であってほしいし、大変を自慢したいんだ。
なんかそう今では思う。
きっと。
大変なことがすばらしい
大変じゃなきゃいけない
「大変」といいながら、きっと大変が好きだから大変になっていたんだと思う。
田舎はまるで会社の時のようだ
実は田舎でも人と会うと、よくこんな会話が起こる。
「~が壊れてもうた。手も大変やけど機械も大変や」
「お客さんが減ってもうた。いつになったら楽になるのか。大変やで~」
「~もせなーならんし、~もしなーあかんやろ。大変やで」
もうわかっちゃった。
やっぱりね。
「大変」って言う人は、「大変」になりたいんだよ。
「大変は嫌だ!」とか言いながら。
「大変がいい」と思ってる。
サラリーマンだった時の僕も、大変自慢をしながら大変の優越感にひたっていたんだと思う。
そして。
大変が度を越してパニック症という病気になった。。
・・・。
大変になりたかったんだからしょうがないね(笑)
「大変」という漢字は大きく変わると書いてある
言葉の本質をとらえたらとてもいいことだけど。
上記の会話で使われる大変は、僕にとっては聞いたら疲れるし、ワクワクしないし、気持ちも上がらない。
何より。
大変なエネルギーを発しているから、その人は大変になるのはあたりまえ。
そして。
そのエネルギーがこっちまで来るからちょっと嫌(笑)
行動しているから起こる「大変」なのに。
その「大変」という言葉を、プラスの力ではなくマイナスの力で使ってしまうのはもったいないなと思う。
『変わらないもの』よりも『変わるもの』
世の中には見ていてほんとに大変そうだなと思う人がいる。そんな人は、いつもニコニコ楽しそうにしてる。
会話をしていても「大変」ってことば一切でない。
見ているこっちが「大変」って思うくらいなのに。
きっと。
変わらないものを見ずに変わるものを見ているから
なんだと思う。
苦労自慢をする人は『変わらないもの』を見る
苦労を笑顔で乗り越える人は『変わるもの』を見る
苦労自慢の人はこうやって話す。
「また、~ができなかった」
「また、~が壊れた」
「また、お客さんが減った」
苦労を笑顔で乗り越える人はこうやって話す。
「~ができなかったからこそ。今度は~をやる」
「~が壊れてしまったからこそ。できることをやる」
「お客さんが減ってしまったからこそ。今はこうしてる」
苦労自慢は『また』という言葉を使い
苦労を笑顔で乗り越える人は『こそ』という言葉を使う
『こそ』を使って今を希望で笑顔で生きる世界を創りたい。
そう思う。