あなたは最近怒りを覚えた記憶がありますか?
『怒り』というもの。
これはいったいどこから来るのでしょうか?
僕にはこの考えが今府に落ちています。
怒り = 固定観念
例えば。
病気で苦しくて寝込んでいる。
朝から何も食べずに、ずっと寝ているが妻は家にいるのに一度も様子を見にこない。
そして心がこう言い出す。
『病気で寝ていたら、病気にいいものを作って寝室まで届けてくれたりするやろ!』
『それでなくても「大丈夫?」って様子みにきたりするやろ!』
そして。
気が付くと怒りがこみ上げている。
例えば。
メールでものを尋ねてきた人に、真剣にメールで答えて返答するが、その後お礼や感想のメールがこない。
そして心がこう言い出す。
『聞いておいて返事しないのはあかんやろ!』
『聞いたんだからお礼くらいせなあかんやろ!』
そして。
気が付くと怒りがこみ上げている。
例えば。
子供が滑り台で遊んでいて「ねぇ!見てみて!!」って親に必死にアピールしてすべている。
だけど。
その両親は、滑り台の下でその声を無視して携帯電話をいじっている。
『子供を無視したらあかんやろ!』
『子供にさみしい思いをささせたらあかんやろ!』
そして。
気が付くと怒りがこみ上げている。
この構造。
おわかりでしょうか?
目の前に起こったことに対して、人はそれを見て心が動きます。
そして。
『あかんやろ』と思ったところで、怒りの感情となっています。
『あかんやろ』とは『こうしなければならない』という自分の『固定観念』です。
つまり。
自分の中にある固定観念が自分に怒りという感情を持ってきていたりします。
でも。
自分をいらっとさせたその人の意見を聞いてみると、意外と自分の固定観念がなくなったりします。
例えば病気の例は。
『病気の時は絶食に限る、だから食べ物を与えないのがその人のため』
『寝るのに集中してもらいたいから、なるべくうるさくしないようにしよう』
もしそう相手が思っていたら。。
例えばメールの例は。
『身内に不幸があって返信できる状態ではなかった』
『何度もお返事をもらうことに遠慮して、メールをしなことを選択した』
もし相手がそういう状態だったら。。
例えば子供の例は。
『夫や妻からの心がヒヤッとするメールがきて、子供より大事という選択をした』
『仕事で急を急ぐ大事に連絡で子供より大事と選択をした』
聞かないとわからないそんなシチュエーションだったかもしれません。
これらを聞いたら、あなたの怒りはどうなりますか?
自分の固定観念と相反する固定観念を相手がもっていただけのこととなります。
ここで言いたいのが。
固定観念が悪い!
固定観念を持つな!
とか。
そういうことを言いたいのではありません。
人間である以上。
人それぞれ『信じていたいもの』ってあるし、あっていいと思います。
ただ。
固定観念から生まれる突発的な感情に振り回されると、もったないよということ。
こっちがいらっとしても、相手も自分のことを思ってくれていたり。
相手の固定観念が自分とちがかったり。
その時のシチュエーションがあったり。
ただ、わかりあえていないだけということがあったりします。
怒りを感じたら、自分の信じているものを見つけるチャンス。
怒りを感じたら、「自分の持っている固定観念はなに?」そうやって自分に問いかけてみる。
すると。
なぜ自分が怒っているかがわかる。
そして。
その固定観念を相手に伝えてみる。
すると。
自分の中にない新しい観念を教わることがあったりする。
すると。
自分の固定観念の器が広くなり、しだいに自然とあまり怒らなくなったりする。
自分の観念を知り、相手の観念を知っていく。
観念を知れば知るほど固定されない。
自由観念となっていく。
大事なことは、自分の持ってる観念をもっともっと知ること。
そして、相手や人の数だけある観念をもっともっと知っていくこと。
そうずれば観念を固定せず、自由にすることができると思います。