怒りの正体は期待 できるというあたりまえ視点からできなかった応援視点を思い出そう

怒りの正体は期待

できるというあたりまえ視点から

できなかった応援視点を思い出そう

《Word&calligraphy:Masatoshi Kusakari≫

人の怒りという感情はどこから来るのだろう?

 

世界平和都市宣言をしている京都の綾部に住み。『平和』というキーワードをよく目にして、自分の平和を考えてみた時、その平和の世界に怒っている人はどうイメージしても出てこないのです。

でもその怒りの正体を、娘が教えてくれたら、今日は怒りについて話してみます。

 

世の中にはよく怒る人と、よく怒らない人がいる。

「怒りも自分という宝箱の中に入っている大事な感情の1つだから、怒りを抑えたりがまんしたりするのはよくない。」

という人もいれば。

「怒りは怒りの連鎖を呼ぶ。自分で怒りを消化すればその連鎖はなくなる。」

という人もいる。

これらの話は、『怒り』という感情があってそれをどうするか?という話になるんだけど。

この前の話。

つまり、怒りという感情はあるけど、怒りが沸かなくなるという世界があるんではないかと最近考えるようになった。

 

ブッタが怒るのを見た人はいるだろうか?
キリストが怒るのを見た人がいるだろうか?
サイババが怒るのを見た人がいるだろうか?

「あの方々は聖者だから」

という人がいるかもだけど、ここで言いたいのは次の問いかけ。

ブッタが叱るのを見た人はいるだろうか?
キリストが叱るのを見た人がいるだろうか?
サイババが叱るのを見た人がいるだろうか?

 

これは答えがわからない空想の世界だけど。おそらく、怒る姿は見た人はいないかもしれないけど、叱る姿は見た人がいる気がする。

教えを問いている人達だから、弟子の間違いを見たらきっと叱ることはあったと思う。

だけど。

怒ることはしなったと思う。

 

「こんな聖者と比べても」という人はいるかもしれないけど、違う時代を生きてきたけど同じ人間。

ここで出て来る『怒る』と『叱る』の違いについてちょっと考えてみました。僕なりに感じたのが。

『怒る』は弟子への『期待』
『叱る』は弟子への『信頼』

『怒る』は自分が正しいと思っている
『叱る』は自分が正しくないと思っている

『怒る』は感情を発散しエネルギーを放出し自分を気持ちよくさせている
『叱る』は感情を収束しエネルギーを備蓄しそれを他人への愛に変える

 

先日娘2人と車で出かける時、僕は怒りの正体に気が付かせてもらうことになる。

ちょうど2週間前くらいから、長女が車のドアを自分で開けられるようになった。そしてそれから、数回、自分でドアを開けて車に乗ることができるようになった。

この日も、ちょっと予定があって急いでいて。長女に「自分でドア開けて入っておいて!」と言って、次女の車の乗車のセットをしていた。

予定では長女がドアを開けて車に乗っていて、あとはドアを閉めるだけというイメージで長女のところに行くと…。

長女はドアを開けずにぼーと待っていた。そうしたら…。

「あーちゃんなにやってんの!おいていくよ!!」

と反射的に怒りが。

でもいざドアを開けようとすると…ロックが掛かってて開かない状態。そこですぐはっと我にかえりました。

 

2週間前までは僕はこの怒りを持つことはなかった。

 

できなかったのがあたりまえから、できることがあたりまえに変わったら。僕の中に期待というものが現れ、そしてその期待が怒りというものを生み出した。

 

例えば。

赤ちゃんが生まれて大変だから、上の子供のお風呂を入れるのはお父さんの係だったとして。

でも、忘年会シーズンで毎晩のように飲んで遅く帰ってくる旦那に。

「お風呂やってくれるんじゃなかったのっ!!」って憤慨する。

これは旦那に「やってくれる」と期待をしていて、やってくれてあたりまえと思ってるから、やってくれないことに怒りが出る。

 

でも。

期待ではなく逆に旦那を信頼していたらどうだろう?

いつも献身的に家のことを思って色々やってくれていて、そして大変な仕事をしてくれていることに感謝して、信頼していたら。

「いつもお仕事ありがとう。お互い大変な時期だけど私ができることはやるから、お仕事がんばって。」となったりするのでは?

 

でも世の中の男性諸君!

こうなるのは、『いつも献身的に妻や家の事を思って愛を感じていたら』という前提条件があるのですぞ!

「仕事やってるんだから感謝しろ!」「俺だって行きたくな飲み会に仕事のために行ってるんだ!」なんて言ったら、信頼から遠くとお~く離れちゃうからね(笑)

日常の信頼があってのこの話。

 

人を信頼し
自分がではなくみんなが正しく
感情を発散ではなく愛に向ける

 

そうすると、怒りのない平和な社会ができたりするのかなとちょっと考えてみました。

 

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https://youtu.be/lCR3TbD1Qko

一度知ったもの、見たもの、あるものと思うと、人はあっという間にそれがあたりまえになっちゃうよね。

ではどうやったらあたりまえと思わずにいられるのか?

それは、自然を相手にすることをやるといいかな~って思う。

 

田んぼや畑をやったら、天候やその時その年によってちがう土の状態などで、同じことをやっても同じようにできることはない。

農作業にあたりまえは1つも存在しない。

そして遊びでも。

登山をすると、以前最高に気持ちよかった山にもう一度登っても、植物の状態や天候によって同じような感動をするとは限らない。

サーフィンも、同じ場所に毎日通っても違う波が立っていて、その日の波はその日しか会えない。

釣りも、昨日釣れたからといって、同じ場所で次の日同じ時間に同じようにやっても釣れない。

自然との遊びをすると、あきらめる力がつく。

 

あきらめるってマイナスな見方もあれば、相手を尊重し偉大さを知り一歩退くという見方もある。

怒りもこのあきらめ力がつくとなくなってくるのかもね。

そういえばかみさんがよく言ってる。「(子供に)何度言ってもわからないから、もうあきらめた」

子育てはあきらめ力をつける、最大な学びの場かもね。

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